『みんなの学校』を観て考えたこと——ケアする側の子どもたちは?

『みんなの学校』を観て考えたこと——ケアする側の子どもたちは?

10月18日、福祉部会のメンバーと一緒に、福祉フェスタで上映された映画『みんなの学校』を観てきました。

大阪市立大空小学校を舞台に、子どもたちや先生たちの姿を1年間追ったドキュメンタリーです。不登校の子どもをつくらないことを目指し、特別支援教育の対象となる子も、そうでない子も、同じ教室で学ぶ学校の姿が描かれています。

発達障害のある子どもへの支援や、不登校の増加について考えるヒントを得たい。そして、インクルーシブ教育への理解を深めたい。そんな思いで鑑賞しました。

目次

一人ひとりに向き合い、社会で子どもを育てる

映画では、子どもたち一人ひとりに向き合う校長先生の姿が印象的でした。

若い先生に指導するときも、ただ「こうしなさい」と伝えるのではなく、「あなたはどう思うのか」と問いかける。その人自身の思いや考えを引き出し、自分で考え、行動することにつなげようとする姿勢に、学ぶことがありました。

また、感情を抑えられず、教室から飛び出してしまったり、周囲の子どもに手を出してしまったりする子どもに、先生たちが根気強く向き合う様子も描かれていました。

その姿を見て、つい、私は自分の子育てを思い出しました。学校では落ち着いて過ごす子どもたちも、家では甘えが出て、兄弟げんかをしたり、思いどおりにならずに感情をぶつけたりします。そんなとき、どう気持ちを引き出し、次の行動につなげていくのか。日々悩み子どもと向き合う自分と、校長先生の姿を重ねていました。

他の学校では不登校だった子どもが、大空小学校では受け入れられ、通えるようになる。成長する子どもたちや、わが子が通学する様子にしみじみと喜びをかみしめる保護者の姿からは、誰もが安心して学べる場所をつくることの大切さが伝わってきました。

そして、そんな学校を可能にしていたのは、校長先生を中心とした学校職員の連携と、地域の方や保護者の協力でした。

担任の先生も養護教諭も、全員が全員で全生徒を見る。そうした理念のもと、子どもたちは見守られていました。そして、その理念は学校職員だけでなく、保護者にも共有されていました。

校長先生が、運動会の保護者の感想について、「自分の子だけのことを書いたものがひとっつもない。これが今の社会に欠けていることだと思うが、それがここにはある」という趣旨の話をされていたのが、とても印象に残りました。

自分の子どもだけでなく、そこにいるすべての子どもを気にかけ、みんなで育てる。そんな「社会で子どもを育てる」感覚は、今の日本社会では乏しくなっているように思います。だからこそ、この映画が描く学校の姿には、大きな意味があると感じました。

ケアする側の子どもたちは、どう過ごしているのだろう

映画から学ぶことや、心を動かされることがたくさんあった一方で、鑑賞中、私の中には最後まで拭えない疑問もありました。

それは、誰かを支える側にいる子どもたちは、どんな気持ちで過ごしているのだろう、ということです。

映画には、問題行動を起こす子どもに、周囲の子どもが手を差し伸べる場面が出てきます。

校長先生が、教室に入ってこられない子を迎えに行くよう、別の子どもに声をかける場面もありました。その子は、相手に心ない言葉をかけられながらも、根気強く向き合っていました。

また、校長室にいる男子生徒を迎えに来る、大人びた女の子の存在も印象に残っています。真剣な眼差しで授業を受け、素晴らしいバランス感覚で書き初めを書く女の子たちは、いつも黙々と取り組んでいました。

校長先生は、卒業する障害のある子どもに、「あなたのおかげで、みんながたくさんのことを学ぶことができた」という趣旨の言葉を伝えていました。困難を抱える子どもを受け入れることを通じて、周囲の子どもたちも学んでいく。その考え方は大切だと思います。

けれども、私は同時に考えました。

その子を支える側にいる子どもたちは、どんな気持ちで過ごしているのだろう。自分だって嫌だ、つらい、そばにいたくないと思うことはないのだろうか。

その子たちが大人から認められるのは、行動や結果が素晴らしいときに限られるとしたら、どこでありのままの自分を受け入れてもらえているのだろうか。

そして、そうした気持ちを、先生や周囲の大人に率直に伝えられているのだろうか。

感情を抑え、自分のやりたいことを後回しにして、周囲とうまくやっていける子どもほど、自分の負担を表に出さずにやり過ごしてしまうことがあります。

困っている子に寄り添うことを求められても、自分自身の気持ちを口にするのは難しいかもしれません。

映画では、そうした子どもたちの葛藤や、ケアする側の負担に、十分に光が当たっていないように感じました。

「支えることができる子」も、支えられていい

そのことを考えるうえで、象徴的に感じた場面があります。

学習が苦手な子どもが、わからないことを「分からない」と解答に書いたことに対して、別の子どもが、「分からない」と書いてはいけないという趣旨の発言をしました。それを受けて、校長先生がその子を「間違っている」と一方的に叱る場面です。

もちろん、わからないことを言葉にするのは大切です。しかし、その発言をした子ども自身も、以前に大人から「わからないなら白紙にしなさい」と教わっていたのかもしれません。

その子もまた、大人から教わったことをもとに考え、行動していた一人の子どもです。学習が苦手な子に寄り添うことと同じように、その子がなぜそう考えたのかにも耳を傾けてほしいと感じました。

校長先生という強い影響力を持つ大人の前で、子どもたちは「大人が何を求めているのか」を考えながら行動するようになるかもしれません。

周囲のために行動することが習慣になり、自分の本当の気持ちや望みを後回しにするようになったら、どうでしょうか。

誰かの役に立つことでしか、自分の価値を感じられない。ケアする側としての自分しか知らない。そんな大人になってしまわないか、という心配も浮かびました。

そして、これは学校だけの問題ではありません。人格が形成される基盤である家庭で、子どもが自分の意思にかかわらず、誰かを支える役割を担っているとしたら、その影響はさらに深刻なのではないでしょうか。

誰もが受け入れられ、自分らしく生きられるために

インクルーシブな学校とは、感情を抑えることが難しい子も、学習が苦手な子も、安心して通える学校であるべきです。

同時に、落ち着いて授業を受けたい子、学ぶことの面白さを感じたい子、自分の好奇心を満たしたい子も、その権利を十分に保障されなければなりません。

支援を必要とする子どもが受け入れられることと、周囲の子どもが自分を押し殺して支えることは、同じではありません。

誰かを支えることができる子どもも、つらいときには助けを求め、自分の気持ちを大切にされるべきです。

このことは、子ども時代だけの問題ではありません。

周囲の期待に応えることや、誰かの役に立つことを優先しすぎて、自分の気持ちがわからなくなってしまう。誰かの期待に沿う選択しかできなくなり、自分が本当にやりたいことがわからなくなってしまう。そんな生き方につながる可能性もあるのではないでしょうか。

映画を観ながら私が気になったのは、まさにその点でした。誰もが受け入れられる学校をつくることと、その場にいる一人ひとりが自分らしくいられること。その両方を実現するために、どのようなバランスを取っていたのか。映画では、その部分が十分に描かれていないように感じました。

もちろん、映画で描かれたことだけで、実際の大空小学校のすべてを判断することはできません。映画には映らなかった支援や、子どもたちの思いもあったでしょう。

そして、この映画が伝えてくれた、仲間同士で受け入れ合い、助け合う社会を学校で実現する姿は、社会全体で目指していくべきものだと思います。

だからこそ、私はこの映画を観て感じた疑問を、素直に問いとして残しておきたいと思います。

誰かを支える子どもも、支えられていい。

誰もが受け入れられることと、誰もが自分らしくいられること。その両方をどう実現していくのか。

簡単に答えが出る問題ではありません。だからこそ、学校だけでなく、社会全体で考え続けていく必要があるのだと思います。

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